Nikolai Rakov
Russia
(1908 - 1990)


日本語表記 ニコライ・ペトロヴィチ・ラコフ
英語表記 Nikolai Petrovich Rakov
露語表記 Раков, Николай Петрович

英語等別表記  (名) Nikolaj, Nicolas, Mykola (姓) Rakof, Rakow (*cA01)
日本語別表記 ニコライ・ラーコフ ニコライ・ペトロヴィッチ・ラーコフ
生没年月日 1908年3月14日 ~ 1990年11月3日 (82歳)



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◆ 略 歴

1908  モスクワの南西 200kmの都市 カルーガ(Kaluga)で商人の家の末っ子として生まれる.
1915  ピアノを習い始める.
1917  ヴァイオリンに転向する.
1920-24 ルビンシュタイン音楽学校でヴァイオリンを師事.
1920-24 ヴァイオリニスト 兼 ピアニストとしてカルーガ市交響楽団で演奏.
1922  モスクワ音楽院に入学. (ただし住む場所を確保できなかったため1か月で帰郷する)
     以後 プライベートレッスンという形でダビッド・クレイン(D.Krein)にヴァイオリンを師事.
1924-30 ルービンシュタイン音楽大学(現 モスクワ音楽院附属アカデミック・ミュージック・カレッジ)でアニシム・ベルリン(A.Berlin)にヴァイオリンを師事.
1926-31 モスクワ音楽院でレインゴリト・グリエール(R.Glière)やセルゲイ・ヴァシレンコ(S.Vasilenko)に作曲法を師事.
1932-  モスクワ音楽院で恩師 グリエールの助手として勤め始める.
1935-  モスクワ音楽院の講師として自分のクラスを持つようになる.
1943-  モスクワ音楽院楽器法教授に就任. 楽器法に関する著作あり.
1946  ヴァイオリン協奏曲第1番(1944)の功績を称えられスターリン賞受賞.
1949-  指揮者としての活動を始める. 自作や古典音楽を得意とする.
1966  ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国名誉芸術家(功労芸術家)の称号に輝く.
1975  ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民芸術家の称号に輝く.
1988  ソビエト連邦人民芸術家の称号に輝く.
1990  モスクワにて死去. ドンスコイ墓地に埋葬. 音楽院では亡くなるまでの58年間, 後進の指導にあたった.



◆ 出 自 ・ 人 柄 

・同じ1908年生まれのニコライ・ラコフ(Nikolai Pavlovich Rakov, 1908-1978)というグレコローマンスタイルのレスリング選手がいるが,
  同姓同名というだけで特に接点はない.


・ラコフの家は商人の家系であり, とりわけ父 ピョートルの代で大きな財を成した.
  彼は当時のカルーガ市でちょっとした有名人であり, 実家の商店を市内一二を争う規模にまで発展させた.

・ピョートルは市内に複数の不動産を有し, 帝政ロシアの様式を多分に含んだ邸宅があったと伝えられている.
  ただし, そのほとんどは(1棟を除いて)現存してはいない.
  (ラコフの家に関しての記述は多少長くなるため, 折り畳んでおきます)     []

・演奏会に際して, 10代~20代の頃はヴァイオリンやピアノの演奏家として活動していたが, 40歳を前後する頃から指揮活動に軸足を移した.
  それは彼なりの哲学があったようで, 首都 モスクワで演奏活動をしなくなった彼に対し 友人が不満を漏らしたところ, 次のように答えたという.
    『モスクワには指揮者はたくさんいるし, 楽団もある. でも地方では交響楽団がないこともあるし, いたとしても恒常的に人員不足だったりする.
     そんな地方に生演奏の良さと世界には素晴らしい音楽があるということを届けたいんだ』
  事実 彼は数十におよぶ地方都市や連邦共和国に足を運び, ベートーヴェンの『エグモント』やワーグナーのオペラといったさまざまな国・時代の音楽を指揮していた.

・正規の音楽学校での教育に加えて, アマチュアのワーキンググループに講師として通うなど幼少期の音楽教育指導に注力していた. それは
    『国の音楽文化を未来へと発展させていくのは若い世代であるが, 若い才能にとって新しいものを生み出すためには長い期間かけて醸成された(先達の)知識が不可欠である』
  といった彼の考えに基づいている.



◆ 交 友 
  * 女性名のうち, 結婚後の姓(現姓)と旧姓を併記する場合 [名前・父称・現姓 - 旧姓] という形に統一します.

* 家族 *
・[p] ピョートル・ステパノヴィチ・ラコフ (Pyotr Stepanovich Rakov, 1868-1944/1869-1943):
  ニコライの父親. 商人.
  地元 カルーガで商店を営んでいた両親を幼いころから手伝っていた.
  公立学校卒業後はロシア帝国軍に従軍. 帰郷後は同業の商人仲間の娘 ナジェージダ・ザヴェーリナと結婚する.
  実直で奉仕精神の強い人物で, 1911年に新築したばかりの立派な邸宅を1917年のロシア革命後, 自発的に政府に譲渡.
  自分のお店で働く従業員を大切にしたり, カルーガ市民のために無料の図書館を開設したりするなど, 地元では非常に尊敬された人物だった.
  1932年, 白海にほど近いロシア北西部の港湾都市 アルハンゲリスクに移住させられ, 1944年 同地で亡くなった.

  
・[p] ナジェージダ・ヴァシリェヴナ・ラコワ=ザヴェリナ) (Nadezhda Vasilievna Rakova-Zaverina, 1869-1958):
  ニコライの母親.
  地元 カルーガの有力穀倉商人 ワシーリー・ザヴェーリンの娘.
  余談になるが, ナジェージダの兄 ニコライ・ザヴェーリン(1866-?)は夫 ピョートル・ラコフの姪 アレクサンドラ・ラコワ(1870-?)と結婚しており,
  ラコフ家とザヴェーリン家の縁談は少なくとも2件(ピョートル・ラコフとナジェージダ・ザヴェーリナ / アレクサンドラ・ラコワとニコライ・ザヴェーリン)あることが確認できる.
  アレクサンドラはピョートルの兄 アレクセイ(?-?)の子で, 姪といってもピョートルと2歳しか差がない.
  2組の婚姻についてどちらが先か決定づける資料は今のところ見受けられないが, それぞれの長子が ヴァーヴァラ(1894-1969)とヴィクトル(1896-1943)であることを鑑みると
  ピョートル&ナジェージダの方が先であるように思える.


リディヤ・アントナヴナ・ラコワ=スロボジョノク (Lydiya Antonovna Rakova-Slobodzionok, 1902-1981):
  ニコライの妻. 職業 バレリーナ.
  あまり詳しいことはわかっていませんが, 姉さん女房だったんですね…

   +(2親等以上の親族)




* 師 *
ダヴィッド・セルゲエヴィチ・クレイン (David Sergeevich(Abramovich) Krein, 1869-1926):
  ヴァイオリニスト. ロシア帝国スモレンスク県ドロオブズ生まれ生まれ. ユダヤの血を引く家系で父 アブラム(1838-1921)はユダヤ音楽(クレツマー)のフィドル弾きだった.
   兄弟7人すべてが職業音楽家となり, そのうち末弟 アレクサンドル(Allexandr Abramovich Krein, 1883-1951)は作曲家として成功を収めた.
  帝国ロシア音楽協会ニジニ・ノブゴロド支部でヴァシリー・ヴィルアン(Vasiliy Villan, 1850-1922), モスクワ音楽院でヤン・フジマリー(Jan Hřímalý, 1844-1915)に師事.
  1900年 ボリショイ劇場管弦楽団のコンサートマスターに就任, 1918年からはモスクワ音楽院の教授を務めた.
  主な門人にセミョン・ベズロドニー(イゴール・ベズロドニーの父), ヴァシリー・シリンスキー.
  余談だが19世紀末にバプステマ(キリスト教の洗礼)を行ってからは父性を本来のアブラモヴィチからセルゲエヴィチに改めている.

     
アニシム・アレクサンドロヴィチ・ベルリン (Anisim Alexandrovich Berlin, 1896-1961):
  ヴァイオリニスト. ロシア帝国(現 リトアニア)ヴェゲリー生まれ.
  ペトログラード音楽院(現 N.A.リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルク国立音楽院)でユダヤ人ヴァイオリニストのレオポルド・アウアー(Leopold Auer, 1845-1930)に師事.
  1928年よりモスクワ・フィルハーモニー交響楽団に属し, 1941~1952年の間 コンサートマスターを務めた.
  教育家の側面としては1923~1934年に亘り, モスクワ音楽院で後進の指導に当たった.
  なお, チェリスト ナタリヤ・グートマン(Nataliya Gutmann, 1942- )の実の祖父にあたり, 1956~1960年にかけて指導し少年期の技術と抒情性の生育に寄与したと彼女は述懐している.
  余談だが, ナタリヤの実父 アルフレッド・ベルリン(1912-1978)はアニシム 16歳のときの子で有機化学の分野で相当の成果をあげた. ピアノ演奏に長けていたという.
  ナタリヤの実母 ミラ・グートマン(1914-1982)は 伝説的なピアニスト・名教師のゲンリフ・ネイガウス(1888-1964)に師事した職業 ピアニストであった.
  ナタリヤがチェロに目覚めたきっかけは継父ロマン・サポジニコフ(1903-1987)の影響が強く, チェロの教則本なども手掛けていた彼に5歳の頃から指導を受けていた.
  さらに余談になるが, ナタリヤの父称は実父のものでも継父に基づいたものでもない"グリゴリェヴナ(Grigorievna)"を名乗っている.
  日本と異なり, ロシアでは14歳以上であれば自分の意思で名前を変更することが可能で, 申請書のほか手数料(1600 ), 出生証明書といった書類さえあれば受理される.
  これは苗字や父称に関しても同様であり, 結婚や離婚に限らないさまざまな人生の転機やタイミングで変更する人が中にはいるということである.
  ナタリヤが父称を変えた理由は明らかにされていないが, グートマンは母親の姓であることを考えるとなんとなくわかるような気もしてきます..

     
レインゴリト・マリツォヴィチ・グリエール (Reinhold Moritzevich Glière, 1875-1956):
  作曲家. ロシア帝国(現 ウクライナ)キエフ生まれ. ドイツ人とポーランド人を両親に持ち, モスクワ音楽院でタネーエフ, アレンスキーなどに師事.
  留学の後, 1920-41年の間 母校であるモスクワ音楽院に勤めた. 主な門人に プロコフィエフ, ハチャトゥリアン, リャトシンスキー.
  主な作品に, 交響曲第3番『イリヤ・ムーロメッツ』, バレエ音楽『赤いけしの花』, コロラトゥーラ・ソプラノのための協奏曲, 25の前奏曲.

  ラコフとの関わりは, 彼が入学した1926年に始まり, 卒業後もグリエールの助手として10年近く付随した. ラコフの作風は彼の影響が強い.

  
セルゲイ・ニキフォロヴィチ・ワシレンコ (Sergei Nikiforovich Vasilenko, 1872-1956):
  作曲家. 指揮者. モスクワ生まれ.
  16歳から音楽教育を受け, 高等教育では最初法理学を修了する. のちにモスクワ音楽院でタネーエフに師事. ピアノと作曲を学ぶ.
  1906-1956までモスクワ音楽院に勤務(作曲法・管弦楽法)し, ハチャトゥリアン, ロスラヴェッツ, A.メリカントらを育てた.
  主な作品に, ヴィオラ・ソナタ, 中国組曲第1番, 日本組曲, トランペット協奏曲『演奏会用ポエム』.

  民族音楽・民族楽器と管弦楽法の扱いに長け, ラコフの色彩ある管弦楽法は彼譲りのところがある.





* 共 演・同 僚・友 人 *
  




* 教え子 (キリル文字順) *
[ 作 曲 家 ]
  

[ 音 楽 学 者 ]
  

[ 指 揮 者 ]
  





* 題 材 (詩 提 供) *

  



◆ 作 風 

・ラコフは20世紀という時代を鑑みてもそれまでの西洋音楽が体系化してきた管弦楽法や旋律法に則った堅牢で保守的な作品を書いた.
 師であるグリエールやグラズノフのスタイルを継承する形であるが, 表現の幅という点に於いて独自の拡張もみられる.

・予期せぬ転調や後期ロマン派の和声, 流麗な旋律線が彼の作品の特徴であり, ロシア国民楽派的側面も多分に含んでいた.

・一方で, 後期作品に於いては新古典主義の影響もみられる. (音楽院の試験曲などでもそういった作風のものがある)

・ロシア(ソ連)の各地に残る伝承音楽や民俗音楽に大きな関心があり, カルーガ時代集中的に採譜・研究した時期がある.
 それらの素材は複数の自作品や楽器編成に生かされている. 採譜したメロディーがそのまま自作品の動機に生かされた例としては,
 『交響曲第1番(1944)』(キルギスタン民謡に基づく)や『ロシア序曲(1947)』, ピアノのための『民謡に基づく10の小品(1951)』などがある.

・歌曲も多く取り上げているが, その中には19世紀前半の農奴 M.スハーノフのかなりマイナーな詩も含まれる.
 農民の詩を採用しているのはラコフ自身 スラブ人の民俗習慣や農村の休日, 儀式といった民間伝承に精通していたことと不可分である.

・楽器法(管弦楽法)が専門であったが, (カバレフスキーらと同様に)同時に子供のための音楽に特別な関心を抱いていた.
 そのため, 音楽教育を目的としたピアノ小品や室内楽作品も数多く残している.

・ソビエト連邦時代, こういった馴染みやすい要素によってラコフの作品は大変な人気を博した.
 そのうち, 最も有名なものがヴァイオリニスト ダヴィッド・オイストラフによって披露された彼の『ヴァイオリン協奏曲第1番(1944)』である.
 この作品の成功によってラコフは1946年, スターリン賞を受賞している.





◆ 作 品 
太字は楽譜・音源が(一部または全部)手元にあるものです. (#: 楽譜のみ *: 音源のみ #*:楽譜・音源)
[ 略 記 号 説 明 ]
[ 日本語 表記 ]

For Symphony Orchestra and String Orchestra

For Soloist and Orchestra

For Concert Band

For Russian Folk Orchestra

For Jazz Orchestra

For Piano

For 2 Pianos / 4 hands

For Violin and Piano

For Viola and Piano

For Cello and Piano

For Contrabass and Piano

For Strings ensembles and Piano

For Harp and Piano

For Wind instrument

For Bayan

For Domra and Piano

For Choir with piano accompaniment

For Voice and Piano

For Vocal Duets with Piano




◆ 録 音 ・ 出 版 

C D
 + 




L P
 + 
(かなり長いので注意してください…)



楽 譜
 ・入手可 - 出版年順 -
   

 ・入手 (難) - 出版年順 -
   

   +(アンソロジー)



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◆ 注 釈 ・ 備 考  * 大幅に加筆した部分に対応するため注釈附番が統一されてませんが, いずれ修正します *

[*1]  アメリカやカナダに居る場合, レンタル譜を請求することができる.
    下記参照: Music Sales Classical - Nikorai Rakov

[*2 (2021/08/03 記述)]
  『ピアノソナタ 第1番(1959)』と『古典形式によるソナタ(1959)』は同一の曲を指しています. (副題的扱い)
  本サイトの作品目録の大部分はラコフ本人が存命だった1979年に音楽学者 アナトリー・ツケル(Anatoly Tsker, 1944- )が著した
  書籍『ニコライ・ラコフ』の附録部分を根拠にしています. (当然ながら, 1979年以降の作品は別情報源による記載になります)
  その中で, 上記作品が独立した2つの作品であると誤解し, 長らく誤った情報を本サイト上に掲載してしまいました.

  大変 失礼いたしました..

[*3 (2021/08/03 記述)]
  『ピアノソナチネ 第4番』について「ハ短調の3楽章制」であるように記載していましたが, これは誤りで,
  正しくは「イ短調の単一楽章制」です.
  
  このような誤解が生じた理由は,
  ピアニスト: ドミトリー・ブラゴイがリリースしたLP『Rhapsody / Sonatina No. 4 In C Minor / Ballade In B Minor / Suite()』にて
  ラコフの作品『ピアノソナタ 第1番 ハ短調』が収録されているのですが,
  LPの盤面やジャケットにおいてその作品紹介が『ピアノソナチネ 第4番 ハ短調』や『ピアノソナタ 第4番
  などと誤って表記されていることに起因しています.
       [ 写 真 表 示 ]



  大変 失礼いたしました....

[*4]
  当該曲は調性はあるものの, 楽譜上 調号が置かれていないために実質的な調性を示している.
   
  ラコフの作品は作中での転調が自由に行われるものの, 原則的に調性が明瞭なものがほとんどである.
  ただし, 明らかに調性的な作品であっても調号を用いていない作品もある.
  
  それはひとつにはミクソリディアやフリギアといった旋法的な性格の強い作品である時や,
  展開のなかで複数の調を同格に扱いたい場合(← 複調という意味ではない)に用いられることが多いようにみえる.



(*cA01)  露語を英語に直した時の表記ゆれ, …というよりは ロシア語における"Nikolai"がフランス語では"Nicolas", ウクライナ語では"Mykola"にあたる人名であるといえる.
    ある意味 意訳とも言えるし, 多言語でのラテン文字音写と考えてもよい. ちなみに姓の"Rakow"表記はドイツ語による.

(*cA02)  ロシア…というよりも旧ソ連諸国では道路に限らず偉人にちなんだ正式名称を残す建物・施設が多く見受けられる.
    ソ連時代には都市の名前を指導者や偉人の名に基づいた名称に改名することが一度や二度ならずあった.
    それらは"国の発展に尽くした功労者を顕彰する", という表向きの理由のほか, 政治的な意図も多分に孕んでいた.
    あるときは当局の活動に沿った働きをした人物への叙勲であったり, 哀悼を示すものであったり, 或いは牽制や抹殺(=一度与えた名前を剥奪する)の象徴でもあった.
    
    以下の論文は, ソビエト崩壊直後の1993年にロシアの都市地理学者 パーヴェル・イリーインが著したもので,
    「偉大なるソビエトの名称変更ゲーム」(皮肉)に言及している貴重な資料である.
    興味がある方は読んでみると面白いかもしれません.
    
      参考: 『偉人にちなんだ(旧)ソビエト諸都市の改称』(1993, 訳 1995) 著: パーヴェル・イリーイン, 訳: 山田 晴通 -->
    
    
    旧ソ連各地にある音楽学校や音楽院も正式名称では功績・功労のある音楽家の名前を冠していることが多々あり,
    有名なところで言えばモスクワ音楽院 - 正式名称:チャイコフスキー記念国立モスクワ音楽院などがある.
    これらの音楽家のエポニム的名称は自身の出身校や出身地にちなんだ命名がほとんどであるが, 凡そ 存命中に改名されることはない.
    
    かくいうラコフ本人もカルーガ市内の音楽学校にその名前を掲げられている.

(*cA03)  ロシア革命以前の古い時代, 「ミハイロ=アルカンゲルスカヤ通り」, 「ニキツカヤ通り(*)」と呼ばれ,
    1918年以降は革命通り, スターリン通りを経て最終的に1961年12月1日以降はレーニン通りと呼ばれるようになった.
    ロシア革命前は通りの一部を「モスクワ通り」とも呼んでいた.

    (*) 近くのニキータ正教会に由来, ニキータとはロシア正教会における紀元4世紀の大致命者 ニケタス・ザ・ゴスのこと.

(*cA04)  古い時代は「ミロノシツカヤ通り」と「テレニンスカヤ通り」の2つの部分に分かれていた. .
    革命前は「サドヴァヤ通り(*)」もしくは「ヴォルシャヤ・サドヴァヤ通り」と呼ばれ, ロシア革命以後は「テアトルナヤ通り(*cA10とは別)」,
    1930年代からは現在の「キーロフ通り」と呼ばれるようになった.
    
      参考:Kirova St. (ロシア語) [101Hotels.com]
    
    (*) サドヴァヤは「庭園」という意味でロシア各地にそれぞれの「サドヴァヤ通り」がある.
    

(*cA05)  1911年4月17日, ピョートルは妻 ナジェージダと連名で地域の人を新築完成祝賀会に招いている. .
    招待状の文面は以下の通り.
    
      1911年4月17日, モスクワ通り・サドヴァヤ通りの角に竣工しました住居 兼 商店の落成祝賀会を行います.
       パンと塩(*cA06))を用意しております. 竣工式は午後2時より行いますのでそれまでにご着席ください.
       ピョートル・ステパノヴィチ&ナジェージダ・ヴァシリェヴナ ラコフ

    
    祝賀会に出席した客人はケーキやペイストリー(タルトなどの小麦粉のお菓子)をたくさん振舞われたようである.
    これは妻 ナジェージダの実家 サヴェリン家が小麦を含む大規模な穀倉商人であったことが関係している.

(*cA06)  スラヴ諸国における訪問客を歓迎する習慣.
    ロシア語には『Хлеб всему голова (パンは万物の源)』という諺があり, これはちょうど英語の『Bread is the staff of life. (パンは命の糧)』という言葉にあたる.
    これらは聖書に由来し, スラヴ文化圏ではとりわけパンは聖なるものとして考えられてきた.
    また, 塩は中世に至るまでかなり貴重で高価なものであり, 特別なものの象徴であった.
    
    これら富と健康の標である "パンと塩" を振舞うという行為は, 客人を最大限にもてなすロシア人の気質に結び付き, 文化として根付いてきた.
    現在でも結婚式や伝統行事などで見られる風習となっている.
    
      参考:パンと塩 (ロシア語) [Wikipedia.ru]
      参考:なぜロシア人はパンと塩でもてなすのか? (日本語) [RUSSIA BEYOND]

(*cA07)  .
      参考:sa (ロシア語) [Wikipedia.ru]

(*cA08)  フョードル・プーシキン(Fyodor Alexseevich Pushkin, 1752-1810)
    フョードルが実際にカルーガの副県知事であったのは1798年~1800年の間である.
    作家 アレクセイ・プーシキン(Alexei Mikhailovich Pushkin, 1771-1825)は
    フョードルの兄 ミハイル(Mikhail Alexeevich Pushkin, 1749-1793)の息子であり, フョードルからは甥っ子にあたる.
    この邸宅にも何度か遊びに来ていたらしい.
    
    プーシキン家は10世紀まで遡ることのできるかなり古いロシアの貴族の血を引く家系.
    プーシキン家で最も有名な詩人 アレクサンドル・プーシキン(Alexander Sergeevich Pushkin, 1799-1837)は彼らと同世代であるが,
    どういった関係があるかは今のところ不明である.
    (ただし, 遠い血縁関係はあると思われる)

(*cA09)  実際には19世紀末頃に建物付きの土地を取得し, 1901年頃には邸宅の建設計画を立て, 1908年になって建設を始めた, …というのが正しい経緯のようだ.
    1908年はニコライの誕生年であるが, 1901年はラコフのすぐ上のきょうだいである三女 ソフィヤの誕生年となっている.
    
    以下は推測であるが, 「オブルプスカヤ通り」は後述するとおり, 1924年頃~1961年の間 「レーニン通り」
    と呼ばれていたことから, 20世紀中ごろまではカルーガ市における街の中心部であったと思われる.

    また, この通りは歴史が古いため, 現在の行政区画(番地)が古い時代の名残であると考えると,
    ラコフ家旧宅のあった1区画(9番地)はそれほど 広いとは言えない.
    
    当時の自宅と彼らが運営していた商店が同じ場所にあったかは定かではないが, (たとえ別であったとしても)
    1901年以前にすでに3人の子どもがいた一家にとってこの家は些か手狭となりつつあったことは想像に難くない.
    
    4人目の子が生まれた1901年にいよいよ新しい居宅を考え始め,
    5人目のニコライが生まれる頃には住居と店先を兼ねてしまおうと計画を改め,
    1911年, 3年越しの住居 兼 店舗の立派な建物を構えるのに至った……と思われる. いや, ただの妄想ですけどね…

(*cA10)  18世紀には地図に登場し, 当時は「オブルプスカヤ通り」や「オブルパ通り」と呼ばれていた.
    この語は「町中の酔っ払いが一ヶ所に会する郊外の居酒屋」という意味がある.
    その名の通り, この通りには多くの居酒屋や売春宿, 農場などがあった.
    そのため ほかの地域に比して殺人, 強盗, その他もろもろの犯罪が起きやすく,
    1912年に愛国戦争100周年を記念して「クトゥゾフスカヤ通り」と改められたのちも犯罪が絶えなかった.
    
    19世紀後半にホテルが建設され, 1969年までは市内唯一の施設であったため様々な著名人がこの通りに滞在した.
    (おそらく1924年頃 哀悼の意を込めて)「レーニン通り(*cA03とは別)」と改名され, 1961年まではその名で呼ばれていた.
    
    通りにカルーガ演劇場などの劇場が開かれると, それ以来この通りは「テアトルナヤ通り」と呼ばれるようになった.
    テアトルナヤはロシア語で「演劇の・劇場の」といった意味を持つ.
    
    2009年, 通りの始点数百メートルを歩行者専用道路として再整備し, 以降改善が為されている.
    
      参考:Teatral'naya St. (ロシア語) [101Hotels.com]

(*cA11)  テアトルナヤ通り9番地.
    現在, ラコフ家の旧宅は取り壊され, この場所には旅行代理店「Сомбреро(ソンブレロ)」が入っている.
    ソンブレロとはスペインやメキシコなどで用いられている, 鍔が広く中央部が高い帽子のこと. (社章?になっている)
    
      参考:Sombrero []
      参考:テアトルナヤ通り9番地 [Google Map]

(*cA12)  2011年4月8日公開. カルーガ市テアトルナヤ通り9番地付近の路地にあるブロンズ彫刻像. 彫刻家 スヴェトラーナ・ファルニーヴァ製作.
    コンスタンティン・ツィオルコフスキー(1857-1935)はロシアのロケット研究第一人者であり, 人工衛星や宇宙船に言及したり,
    多段式ロケットや軌道エレベーターを考案するなど「宇宙旅行の父」とも呼ばれる宇宙工学の偉人である.
    最晩年を含む生涯の多くをカルーガで過ごし, また自転車が好きだったツィオルコフスキー.
    展示されている像は囲いがあるわけではなく, 触れたり自転車のペダルを踏んでみたりサドルに座ることができるようだ.
    
      参考:
自転車を引くツィオルコフスキーの彫刻像 (ロシア語) [KALUGARESORT.RU]
      参考: バーミャトニク・ツィオルコフスコム [Google Map]

(*cA13)  ヴァシリ・ヴィノグラドフ(Vasiliy Dmitrievich Vinogradov)は19世紀末~20世紀前半にかけて活躍した建築家.
    まわりの自然や先に存在した構造物を意識した, 周囲の景観に配慮した建築スタイルを得意とする.
    カルーガ市内にはいくつか彼が手掛けた建築物が残っている.
      参考:vinogradov //ヴィノグラドフの家(1908)

(*cA14)  Ракушкаは"貝殻"を意味する『Раковина』の愛称形である.
    これは言うまでもなくラコフ(Раков)と掛けた言葉遊びである.
    ちなみに"раковина"は"рака"(棺)という単語から作られた語.
    
    以下, 余談ではあるが…
     ①ракушкаは"貝殻"から転じて(俗語表現ではあるが)「移動式の金属製ガレージ(のような設備)」を指すこともある.
      これは外観形状が外部からの攻撃や衝撃に耐えるためのシェルターのようなものであると考えれば納得できます.
      
      ロシアでは車を管理・保管するためのガレージの設置に関して, 場所や申請などが法律上 厳格に定められており,
      機能面に優れる反面 高価であることが多いこと(正規ガレージの価格はракушкаの12~17倍にあたる),
      都市部では家とは別にガレージを申請する土地が不足していること, などといった理由により,
      ガレージの保有が思うようにいかない層が一定数居るという事実があります.
      
      1991年以降, 法律の穴をつく形でおもに都市部で普及したのがこの"ракушка"という形態でした.
      法律上はカーポート(日除け)と同格であったため 設置場所に関する制限を受けず,
      土地を新たに取得したくない(取得できない)人たちはこぞって庭に設置することが多かったようです.
      
      2006年以後, 当局は違法性のあるракушкаの強制撤去を始めましたが, 反発も少なからずあるようです.
      …なんだこの脱線は.
      
     ②複数形 ракушки にはパスタの一種である「コンキリエ」の意味もある.
      見たまま通りの「貝殻状になったパスタ」のことで日本でもよく見かけるタイプのもの.
      そもそもイタリア語のコンキリエ(conchiglie)が「貝殻」を意味する語の複数形で, これが基になっています.
      単数形はコンキリア(conchiglia), 大きいものはコンキリオーニ(conchiglioni), 小さいものはコンキリエッテ(conchigliette).
      自分はコンキリエッテの方をよく使いますね. …なんだこの脱線は.
     
     ③раковина は手や顔を洗うために設置される「蛇口のついたボウル型の取付洗面器(洗面台)」の意味もある.
      …なんでこんなこと書いてるんだろう自分..    
    

(*c1)  オーケストラ作品『英雄行進曲』(1942)と吹奏楽作品『英雄行進曲』(1943)は編成を変えた同じ曲である可能性が高い.
    こういった編成を変えた楽曲の使い回s 再利用はラコフ作品に, ままある.

(*c2)  オーケストラ作品『演奏会用ワルツ』(1946)とピアノ作品『演奏会用ワルツ』(1968)は同じ曲である.
    オーケストラ用の自作を, 後年 ピアノ編曲して発表したようだ.

(*c3)  作曲者の知名度の割に, 日本では高校生を対象とする弦楽講習の際に課題曲として採用されたことがある. (2011年度)
    学習途上の青少年を対象にした交響曲第2番(1957)と引き続いて作曲されている.

(*c4)  本作(1958)の第4楽章は, 後年のピアノ作品集『演奏会用練習曲』第2集(出版: 1969)収録の第9番練習曲と同じ曲である.
    恐らく, シンフォニエッタのスケッチ(大譜表)をピアノ曲に仕上げたものだと推測される.
    実際, 練習曲の方にはシンフォニエッタにはないピアノ的装飾音やパッセージが付加されている.

    シンフォニエッタからピアノ編曲されたものはこの楽章のみであるが, どういう経緯でこれが選ばれたのかはよくわかっていない.

(*c5)  弦楽オーケストラのための作品『夏の日々(1969)』第3楽章「たくましい行進曲」と
    ジャズオーケストラのための作品『競技行進曲(1949)』の原題はともに『"Спортивный"』.
    この語は「Athletic(活発で元気な・運動競技用の)」「sports(スポーツの・運動用の)」「sporting(スポーツ好きな・公正な・勝ち目が平等な)」
    …といった意味合いだが, 訳を与えるのは少々 難しい.

    肝心の楽曲の関連性について, ジャズオーケストラ作品の方の曲の詳細がわからないので旋律が流用されているかどうかは断言できない.
    (もし同じ旋律であったとしたら, 年代的にジャズオーケストラ作品を弦楽オーケストラ作品の方に流用したことになるが…)

    [追記 (19/09/24)]
    弦楽オーケストラのための『夏の日々』の音源とジャズオーケストラのための『競技行進曲』の楽譜を比較した際,
    同じ旋律や和声を流用した作品ではなさそうである. 他のタイトルが似ている作品群とは異なり, 作曲年に20年の開きがあることからも
    この曲に関しては恐らくそれが正しい(=別の曲である)のだと思われる.

(*c6)  オーケストラ作品『2つのワルツ(1973)』内の「瞑想的なワルツ」とドムラ作品『4つの小品(1973)』第4番「瞑想的なワルツ」は同じ曲である可能性が高い.
    作品に対する直接の論拠はどちらに対しても充分な資料がないため出来ないが, 作品タイトル・作曲年が同じである.
    特に, 彼のドムラ作品は他の編成に対して書かれた作品由来のものが多いのも事実であり,
    ヴァイオリン作品『ヴァイオリン・ソナチネ第3番』とバヤン作品『三部作』の例は同じパターンであると言える.
    (c31)も参照されたい.

(*c7)  この作品はラコフの出世作にして代表作. 発表二年後, この作品の成功によって「ソ連人民芸術家賞」の栄誉を手にする.
    金管楽器がバリバリと炸裂するいかにもなソ連音楽に心が躍る一方で,
    ソロパートは幾分技巧的に書かれヴァイオリニストだった彼の面目躍如といったところ.
    ただし, 録音のバリエーションが幾つか残されているものの, 彼自身がソロパートを演奏した形跡はない.

(*c8)  正確に言うと, この曲はニ長調で始まり, 最終的にニ短調に終わる, という構成である.
    (ラコフに限らず 短調曲が長調に転調して終わる曲は多いが, 本作のようにその逆を示す例は極端に少ない. )
    2つのヴァイオリン協奏曲の間に書かれた作品で, 技巧的には中級学習者程度を要する.

(*c9)  クラリネットとオーケストラのための『幻想協奏曲(1968)』とドムラ(ロシアの民族弦楽器(c36))とピアノのための『幻想曲(1969)』は同じ曲である.
    1967年作曲『ドムラソナタ』を皮切りにラコフはこの楽器に対する可能性を模索していた.
    協奏曲の前奏部分や作品の幾つかのフレーズを省略する形でその翌年にドムラ編曲されたのが『幻想曲』である.

    [追記 (19/09/24)]
    1967年作曲のバヤンのための『幻想曲』も同じ曲である可能性が高い.
    その場合, 記された作曲年から
       バヤンのための『幻想曲(1967)』 → クラリネットとオーケストラのための『幻想協奏曲(1968)』 → ドムラとピアノのための『幻想曲(1969)』
    という流れで作られた, ということになる.

    [追記 (19/12/12)]
    調査の結果, バヤンのための『幻想曲』はクラリネットやドムラに関する幻想曲群とは無関係の作品だと判明しました.
    
    クラリネットの『幻想協奏曲』やドムラの『幻想曲』はト短調のAndante,
    バヤンの『幻想曲』はニ短調のAndanteで曲想やメロディは異なる.

    クラリネット・ドムラの『幻想曲』は臨時記号による転調を除けばト短調→ハ長調→ト短調という推移がある一方で,
    バヤンのための『幻想曲』ではニ短調→変ニ長調→ホ長調→ト長調→変ロ長調→ニ短調→ニ長調, と
    楽譜にして12ページしかない割に調号を伴う転調を繰り返している.

(*c10)  協奏曲と銘打ってあるものの, ヴァイオリン協奏曲群と比して規模はかなり小さい. (小協奏曲と称したほうが適切である)
    また, 伴奏部は"オーケストラの"と題しているものの, 実際は弦楽合奏形態(c34)で書かれている. (管楽器は出てこない)
    いずれも単一楽章であり, 演奏時間が6分~10分程度. 快速なテンポで奏されるが明らかに学習課程を意識して書かれている.
    ちなみに, 1971年に第1番・第2番の伴奏部分をピアノに置き換えた2台ピアノ版『2つのピアノ協奏曲』が, 1978年には同様に『ピアノ協奏曲全集』が出版されている.

(*c11)  吹奏楽作品にもジャズオーケストラ作品にも同名の『コンバット・マーチ』が出てくるが, 同じ曲である可能性が高い.
    編成だけ変更して書き直したものだと考えられる. (c9), (c31) も参照.

(*c12)  ロシアにはバラライカ(c36b), ドムラ(c36), グースリ, バヤン(c35)などの民俗(民族)楽器が存在する.
    楽器編成の中にそれらの楽器を織り交ぜたものを『ロシア民族楽器オーケストラ』と呼称する.
    歴史的な流れを汲めば, 演奏家・作曲家であったヴァシリ・アンドレーエフ(Vasily Andreev, 1861-1918)が,
    一 大衆楽器であったバラライカやドムラの音楽的可能性・芸術的価値を高め, 自国の楽器だけの楽団を構想し, 1896年 その設立に至った経緯がある.
    19世紀後半, ロシアでは西洋からの音楽や楽器が広く流入し, その中で自分たちの民族性を改めて見つめなおす気概が生まれていただけに,
    その流れは至極当然のことであるように思われる. 国民楽派の台頭もそのうちのひとつであろう.

    ラコフ自身の民俗楽器との係わり合いははっきりしたことがわからないものの, オーケストラ編成にとどまらず
    個々の楽器のための作品を残していることから, 楽器の持つ可能性を信じていたことは伺える.
    情報源に乏しく, それらの演奏や作品に触れることは難しいが, 同世代の作曲家が残した作品から雰囲気を推し量ることはできる.
    たとえば, ヴァシフ・アディゴーザル(Vasif Adigozal, 1935-2006)の『ピアノ協奏曲 第2番(1964)』などがある.
   

(*c13)  『プリャソヴァヤ』とは, ペルミ地方を流れる川の名前である.
     参考: Плясовая

(*c14)  題の『ロシアン・ゲーム』は単に"ロシアの遊戯"を意味するもので, いわゆる「ロシアン・ルーレット」とは関係ない.

(*c15)  フォックストロットとは, 1914年頃に生まれたラグタイムから派生したダンス, または その音楽の様式を指す.
    現在では社交ダンスの一スタイルとして扱われているが, 言葉の原義は馬の足並みの一種である.

    1930年代以降 ロシア(ソ連)ではその中程度の速度とお茶目な伴奏形(リズム)が好まれたのか多くの作品がこの形式で作られている.
    (ただし, フォックストロットとスロー・フォックストロット(スローフォックスとも言う)は 一括りに出来るほど近い形式とは言い切れない側面をもつ. )
     参考: だれも書かなかったフォックストロットの謎
    

(*c16)  20世紀の作曲家は自身の作品に作品番号をつけてないスタイルも多く認められるが,
    実際には付いているが知られていない場合もある. (ハチャトゥリアンやババジャニアンにも例がある. )
    ラコフの作品のうち作品番号が確認できるものは, 今のところ本作だけである.

    [追記 (21/08/02)]
    ピアノのための『2つの練習曲(1929)』を作品2, 管弦楽のための『マリ風組曲(1931)』を作品7
    とする資料もあるにはありますが, 根拠に乏しいためここに記すにとどめます.     
    
    [追記 (21/8/14)&(21/8/20)]
    『踊り 作品1』『2つの練習曲 作品2』に関しては当時そういう出版があったことを確認しました.
    
    したがって, 作品1と作品2と作品6に関しては, 上記の表のとおり 間違いなくその対応であったと断言できそうです.

    [追記 (21/9/5)]
    ベラルーシの図書館に所蔵されている書籍検索によると, ラコフの初期作品に作品番号が付いているものは以下の対応となるようです.

     
作品番号出版年編 成タ イ ト ル作曲年
1930ピアノ踊り1929
1930ピアノ2つの練習曲1929
1930      
1936管弦楽スケルツォ1930
1932吹奏楽カザフスタン民謡の主題による間奏曲1931
1933ピアノ4つの前奏曲1930
1933管弦楽マリ風組曲19xx
1938管弦楽舞踏組曲19xx
1938吹奏楽組曲 第1番19xx

    
    

(*c17)  小品集である『10のノヴェレッテ(1937)』『水彩画(9つの小品, 1946)』の両作品のタイトルは, 全体を指標するものではなく
    曲集中の一曲に付けられた個別の楽曲タイトルを表している.
    ラコフ本人の意図はわからないが, 代表曲扱いのつもりでそういう名づけ方をした可能性がある.

    『トランペットとピアノのための組曲(1957)』は, 現在では『4つのユーモレスク(4 Humoresken)』という題で通用している.
    これも同じく曲集中の第4番「ユーモレスク」を代表する形でこの名前が取られているのだが, これに関しては前述の2作品と事情が異なる.
    1989年10月録音, 1996年にリリースされた名トランペット奏者 チモフェイ・ドクシチェルのアルバム『Scherzo Virtuoso』にこの曲集のうち第4番が収録され,
    その縁で後に曲集そのものがドクシチェル・エディション(※)として楽譜が刊行(いわば再出版)されるに至った.
    その際, 彼が録音を行った第4番のタイトルにちなんで本作は『4つのユーモレスク』と名づけられ(再命名?され)たようだ.
    (※…ただし, ドクシチェルは他の3曲の録音を遺していない)

(*c18)  

(*c19)  ピアノ作品集『10のノヴェレッテ(1937)』第6曲「ワルツ(嬰へ短調)」と
    ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な曲集(b.1988)』第6曲「ワルツ(嬰へ短調)」は同じ曲である.

(*c20)  ピアノ作品集『10のノヴェレッテ(1937)』第9曲「マズルカ(ロ短調)」と
    ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な曲集(b.1988)』第8曲「マズルカ(ロ短調)」は同じ曲である.

(*c21)  ピアノ作品集『10のノヴェレッテ(1937)』第10曲「タランテラ(イ長調)」と
    ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な曲集(b.1988)』第7曲「タランテラ(イ長調)」は同じ曲である.

(*c22)  ここで言う「古典」は組曲形式が古典的というわけではなく, 個々の楽曲形式が古典的という使われ方である.
    事実この組曲は調性が統一されておらず, 近代組曲の括りで作られた古典的形式曲集という意味合いである.
   

(*c23)  ピアノ作品集『ロシア民謡に基づく8つの小品 (1949)』第3曲「ワルツ(ホ短調)」と
    ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な曲集(b.1988)』第9曲「思い出(ホ短調)」は同じ曲である.

(*c24)  ピアノ作品集『少年時代(1951)』第4曲「喜劇()」と
    ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な曲集(b.1988)』第5曲「陽気な遊び(イ長調)」は同じ曲である.

(*c25)  ピオネール(пионер)とは, ソ連時代の言葉で「16歳以下で構成された少年・少女共産主義団員」を指す. (ボーイスカウトのようなものである)
    英訳語"Pioneer"の第一義「パイオニア・先駆者」という意味ではないので注意が必要.
     参考: ピオネール

(*c26)  二集に分けられて出版されたこの10の練習曲集は, 第1巻と第2巻で収録された作品の性格が大きく異なる.
    先に出版された第1巻の5曲は, 特定の技巧の練習曲を目的としておらず, 芸術性に重点が置かれている.
    後発の第2巻は, 特定の技巧に固執したチェルニー的な練習曲(第6番・第8番)と, 歌心を感じさせる曲(第7番・第9番)と,
    第1巻然とした芸術性の高い第10番で構成され, 一貫性が薄いのが特徴である.
    このうち練習曲第9番の原曲は自作のシンフォニー(1958)から取られている. 詳しくは (c4) を参照.

    また, 1929年以降に作曲された練習曲作品を『20の演奏会用練習曲』とする文献も存在するが, それは彼の作品に於いて練習曲と題されたものの合算である.
    うち, 17作品については以下のものを指していると考えられる.

        ・『2つの練習曲』 (1929)
        ・『10の演奏会用練習曲』 (1969)
        ・『4つの小品』 (1973) より 第4番「練習曲(オクターブ)」
        ・『4つの練習曲』 (1974)

(*c27)  
   

(*c28)  『ピアノソナタ 第2番(1973)』は第"2"番とナンバリングされているが,
    『ピアノソナタ 第1番(1959)』と同時期に作られた『古典形式によるソナタ(1959)』をピアノソナタと捉えるなら,
    本作は事実上 3番目のピアノソナタということになる.

    [追記 (21/08/03)]
    『ピアノソナタ 第1番』と『古典形式によるソナタ』は同一楽曲でした. ([*2] 参照)
    したがって, 『ピアノソナタ 第2番』はそのまま第2番です.

    加えて, ラコフ作曲のピアノソナタは4作品(第4番まで)ある , というような記述は
    おそらく間違いであるということを付記しておきます. ([*3] 参照)

(*c29)  1943年作曲『ロマンス』は複数の編成のための編曲が存在する.
    ヴァイオリンとピアノのための『ロマンス(ト長調, 1943)』, チェロとピアノのための『ロマンス(ヘ長調, 1943)』は同じ曲である.
    さらに, コントラバスとピアノのための『ロマンス(ヘ長調, 1943)』も同じ曲である.
    
    楽器の特性・音域に合わせて調性は変更されている.

(*c30)  1946年作曲『ヴォカリーズ』は複数の編成のための編曲が存在する.
        ① ヴァイオリンとピアノのための『ヴォカリーズ(ロ短調, 1946)』
        ② ヴァイオリンとピアノのための『12の平易な小品(出版: 1988)』第10曲「ヴォカリーズ(ロ短調)」
        ③ クラリネットとピアノのための『ヴォカリーズとロシアの歌(1946)』より「ヴォカリーズ(ト短調)」
        ④ ファゴットとピアノのための『ヴォカリーズ(1946, イ短調)』
        ⑤ ホルンとピアノのための『ヴォカリーズ(1946, ロ短調)』
        ⑥ 声楽(ソプラノ?)とピアノのための『ヴォカリーズ(1946, 変イ短調)』
    これらの曲はすべて同じ曲である. 彼の作品中 もっとも多くのバージョンが存在する楽曲であり, 彼のお気に入りだったのかもしれない.
    また, 彼が直接かかわったものでないかもしれないが, 「オーボエ用」「アルト・サックス用」「チューバ(恐らくF管)用」の編曲も存在する.

    なお, 後年作曲の
       ・トランペットとピアノのための『ヴォカリーズと間奏曲(1968)』より「ヴォカリーズ」
       ・パン・フルートとピアノのための『ヴォカリーズ(1950?, ト長調)』
       ・声楽作品『10のヴォカリーズ(1950)』
    とは関連がない(…と思われる).
    
    ※ちなみに, パン・フルートとピアノのための『ヴォカリーズ』は声楽作品『10のヴォカリーズ』第7番と同じ曲である.

(*c31)  『ヴァイオリン・ソナチネ 第3番(三部作)』と同年出版のドムラ(c36)とピアノのための『3つの小品』は同じ内容である.
    [c9]と異なり, こちらはヴァイオリンパートにほとんど手を加えずパート名だけを置き換えているに過ぎない. …それって手ぬk

    [追記 (14/12/19)]
     実際の事情としては, (ドムラとピアノのための)『3つの小品』の方が先に構想され, 後から『三部作』にヴァイオリン編曲された…というのが正しいようだ.
     1949年頃からラコフは通常の西洋音楽では用いない, ロシアの民族楽器やその音楽に興味を向け始めていたのだが,
     1960年代になるとそれらをソロ楽器として扱う方向に手を広げてきている. (最初はバヤンに手を出している)
     そういう流れの中で, 彼がドムラのための『3つの小品』の作曲に至ったことは想像に難くない.
     
     一方で, 残されたドムラ作品に共通するのは"技巧をを凝らした演奏会用の作品ではなく, どちらかといえば教育・学習用を想定した難易度"である点が認められる.
     ラコフの専門はアカデミックな立場でいえば楽器法であったが, その頃の彼が力を入れていたもうひとつの重要な仕事は青少年のための初等音楽教育だった.
     そのため, 音楽教室で生徒たちが楽しく易しく自国が誇る民族楽器に触れられる場を作品を通して提供していた面があったのではないかと思われる.
     
     話を元に戻すと, いずれも1968年作曲であるが, ドムラの『3つの小品』は1969年に, ヴァイオリンの『三部作』は1970年に出版されているため,
     ドムラ → ヴァイオリン という流用過程があったと考えるのが自然である.
     もっとも, 彼がドムラとヴァイオリン双方の楽器に共通したメロディを勘案して, たまたまドムラ作品のほうが1年早く出版されただけである可能性は否定できないが….
     
     余談だが, この作品はラコフ自身による録音が残されている. (ただしラコフはヴァイオリンではなくピアノ伴奏をしている)
     当然のことながら, 録音シーンの前線に立つ演奏者はドムラ奏者よりヴァイオリニストのほうが多く, その方が一般的なスタイルであり,
     楽器の特性や音域を考慮した上で, 互換性がある(と考えてもよい)ヴァイオリンを使わない手はない.
     そういう意味でヴァイオリン版の『三部作』が出来上がった可能性も示唆しておく.
     
     このヴァイオリン版の『三部作』は『ヴァイオリン・ソナチネ 第3番』のサブタイトルのようなものであるが,
     実際, 1~3楽章のいずれをとってもソナタ形式 (或いはソナチネ形式)で書かれた楽章は存在しない.
     (元となった『3つの小品』はソナタ形式を念頭に置いて作られたものではなかったので当たり前ではある)
     …それならばなおさら『3つの小品』をわざわざ『ソナチネ』に変更して発表する明確な理由はなく, 正直理解に窮するところを否定できない…のもまた事実である.


       [ 譜 例 表 示 ]

(*c32)  アカデミックな教育家としてのラコフの専門分野は楽器法(管弦楽法)であったが,
    一方で, 幼児音楽教育に注力していた面もあった.
       [ 写 真 表 示 ]


    この曲集に収録された楽曲の半数は, 過去に別作品に収録されたものをヴァイオリン編曲する形で存在している.
    なお, 第10曲「ヴォカリーズ」に関しては, 原曲に当たる『ヴォカリーズ(1946)』自体がvn&pf編成であるため, 編曲されてはおらず
    要するに再録という形になっている.

(*c33)  

(*c34)  ヴァイオリニストだったことが影響してか, ラコフは合奏形態の中で特に弦楽合奏を好んでいた.
    『小交響曲』『交響曲第3番』『夏の日々』をはじめとした中後期の代表曲や4つある『ピアノ協奏曲』(の伴奏部)はすべて弦楽合奏のための作品である.
    さらにチェロのみ複数台で構成するいわば"チェロ合奏"がお気に入りだったようで, この項目で分類されているものはその編成の楽曲ばかりである.

    youtubeにあげられた実演動画を見てみると, 一瞬 異様な光景に思えるものの, 柔らかで力強いアンサンブルの妙に彼が惹きこまれたのもわかるような気がしてくる.

(*c35)  
   

(*c36)  12世紀にモンゴルから現在のウクライナやベラルーシあたりに持ち込まれたと伝えられる弦楽器.
    3~4本のスチール弦と円型(半球形)の共鳴板が特徴的だが, この形は1896年に先述のヴァシリ・アンドレーエフが施した改良が元になっていると言われ,
    1648年頃を境に当時のドムラは徹底的に駆逐されているため, 伝来当初の形について現在はっきりとしたことはわかっていない.
    現在は, 3弦ドムラと4弦ドムラが用いられ, 高い方から1弦, 2弦, 3弦, (4弦)と呼ばれる.
    ただし調弦が異なり, 3弦ドムラはd2-a1-e1と4度調弦なのに対し, 4弦ドムラはe2-a1-d1-gの5度調弦で扱われる.
    音高がソロ向きということもあり, バラライカオーケストラやロシア民族楽器オーケストラではメロディを担当することが多い.
    


    一方で, ロシアの民族弦楽器として名高いバラライカの起源は17世紀の終わりごろにアジア方面から伝来した二弦楽器と考えられている.
    3本の弦(ナイロン弦2本と金属弦)を携えた三角胴の共鳴板をもつ現在の形は1883年になって上述のアンドレーエフとその仲間であるV.イワノフ・F.パセルフスコム・S.ナリモフの手によって改良されている.
    ドムラ以上に幅広い開発・拡張が行われており, 現在は①ピッコロ②プリマ③セクンダ(セカンド・プリマと考えられる)④アルト⑤バス⑥コントラバス, と多彩な同族楽器が存在する.
    そのためロシア民族音楽で活躍する場が広く, 独奏やバラライカ合奏, 果てはバラライカオーケストラ(ロシア民族楽器オーケストラ)まで組織することがある.
    
    高い方から1弦, 2弦, 3弦でその調弦は②プリマを中心とし, a1-e1-e1となり, 2弦と3弦を同じ音に合わせるといった特色がある.
    ④アルトは②プリマより1オクターブ低い楽器でa-e-eと調弦する場合とa-e-Hの4度調弦する場合がある.
    ③セクンダは②プリマの5度下の楽器でd1-a-aと調弦するが, 場合によってはd1-a-eの4度調弦を行う.
    この4度調弦は低音楽器を補強する役割のときに行われ, 実際⑤バスは④アルトの1オクターブ下として, ⑥コントラバスは④アルトの2オクターブ下として
    それぞれd-A-E, D-A1-E1で調弦される.
    
    …バラライカの方に力を入れすぎている...
   

(*c37)  一般に『グレゴリオ聖歌における歌唱法および旋律の技法のひとつ』であり, 歌詞1音節に対して2~3或いはそれ以上の音高の素早い移動を伴った音符を装飾的に当てはめる様式を指す.
    「メリスマ」という言葉はともかく, 技法としては西洋音楽に限らず広く一般化されており, ドイツ語圏のヨーデルやモンゴルのチンメゲレル, 日本のこぶしなどに同様の概念が散見される.
    
    ただし, 本作は歌唱ではなくドムラ作品であるため, 「メリスマ」の語源となったギリシャ語本来の意味である「歌」や「旋律」に根差したタイトルであるかもしれない.
    弦楽器であるドムラは歌心を表現しやすい楽器であると思われるが, 実際のところ曲を聴いてみなければこの辺りの真意は分かりかねるのが実情である.
    [追記 (21/08/13)]
    この曲の原題(ロシア語)は『Напев』.
    英訳語としての第一義は確かに"melisma(メリスマ)"であるものの, 他にも
      "canto(詩編, イタリア語で"歌"の意)", "air(アリア)", "tune(旋律, はっきりとした節回し)"
    といった意味をもつ.

(*c38)  1930年作曲 "Myud (ミュード)" の意味は特定しづらい.
    以下 3つのいずれかであると考えられるが, 副題が『ピオネール(c25)の行進』であることを踏まえると恐らく③が正しいと思われる.
      ①タタールスタン共和国に存在する自治体  参考: Myud の天気予報
      ②1931年開業の 十月鉄道 モスクワ地域部沿線上の鉄道待避施設  参考: МЮД (разъезд)
      ③1915-45年まで開催されていたロシア国内の進歩的な若者のための政治祝典. ワールドユースデー (国際青年デー)とは関連がない
         参考: МЕЖДУНАРОДНЫЙ ЮНОШЕСКИЙ ДЕНЬ ・・・訳すなら「国際青年の日」. 頭文字を取るとМЮДとなる.

(*c39)  

(*c40)  原題は『Ой, дуб, дуба』(ウクライナ語)
    そもそもこの曲は作品『Українська народна пісня(ウクライナ民謡)』の第2番なのだが,
    どうやらこの作品はウクライナ民謡をラコフが採譜し, 合唱曲用に編曲したものらしい.
    第1番に関する詳細・演奏は一切出てこないが, 反面この第2番は人気のようで, いくつもの動画がヒットする. (上記関連動画参照)
  ちなみに原曲(?)にあたる民謡とはメロディラインや和声進行が異なり, より歌いやすいように配慮されている.   参考: 原曲(?)   

(*c41)  ロシア語の原題は『Солнце низенько』
    "солнце"は直訳すると「太陽(sun)」であるが, 「太陽のような人」の意味合いで大事な人に対する呼びかけにも使われる.   参考: ロシア語 愛してる
    "низенько"は「shorty(shortie)」, 幼い子供やかわいい女性に対して用いられる砕けた表現である.

    [追記① (14/12/17)]
     この曲の正式なタイトルは『Сонце низенько』(ウクライナ語)である.
     ロシア語の"солнце"とウクライナ語の"сонце"はどちらも「太陽」を表す語であるが,
     ウクライナ語の"низенько"は「(位置が)低い・低くなる」を表す言葉となり,
     題の示すところは, とどのつまり「The Sun Set(日没) / The Sun is Low (陽は低く)」という意味合いになる.

    [追記② (14/12/21)]
     元となったウクライナ民謡は, ウクライナの作曲家 ミコラ・リセンコ(Mykola Vitaliyovich Lysenko, 1842-1912)による
     ウクライナ語のオペラ『ナタルカ・ポルタフカ (1889)』の第3幕で歌われていたアリアである.
     ラコフはそれをテノールとオーケストラ編成用に編曲し, 1943年LP録音している. (テノール: イワン・コズロフスキー)
     ちなみに発表初期の頃, このオペラの登場人物のひとり ミコラ(Mykola)は, 作曲家 イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Fyodorovich Stravinsky, 1882-1971)の父で
     オペラ歌手であったフョードル・ストラヴィンスキー(Fyodor Ignatievich Stravinsky, 1843-1902)に演じられていた.
     また, 元となったオペラの歌曲集はペトルッチ楽譜ライブラリー(Imslp)で誰でも参照することができる.   [参考] Natalka-Poltava (この曲は PDFファイルの53~54ページに該当する)
     

(*c42)  ロシア語の原題は『Цвели, цвели цветики"』
    これを発音すると, おおよそ [ツヴェーリ, ツヴェーリ, ツヴェチキ] のようになる.
    語幹と語末の音(-i)で韻(頭韻・脚韻)を踏んでいるような格好になるが, ロシア語の派生語と文法規則に照らして, 敢えてこれを狙ったところがある(…かもしれない).
    「цвели」は動詞「цвести (花が)咲く」の過去形,
    「цветики」は名詞「цвет (花; bloom, flower, blossom)」に指小接尾辞(縮小辞)「-ик」がついた単語「цветик(小さい花)」の主格複数形である.

    [追記 (14/12/17)]
     この曲は『Два Українська народные песни (2つのウクライナ民謡)』の第1番にあたる.
     (c40)同様, ラコフが一から作曲したわけではなく, 民謡を採譜・編曲した作品に相当する.
     原曲は10小節(3+2+3+2)の節まわしを6回繰り返す単純なものであるのに対し, ラコフの編曲はABAの三部形式に仕上げるため,
     中間部(B)にあたるメロディを創作している. その結果, 原曲の一部の詩と6番の歌詞を省略する点が大きく異なる.

(*c43)  ソ連の名ピアニスト: グリゴリー・ギンズブルク(Grigory Ginzburg, 1904-1961)が発表した編曲作品『ロシアの歌(Russian Song)
    本作はその原曲にあたる. 歌心を愛したギンズブルクの琴線に触れるものがあったのかもしれない.

(*c44)  ロシア語の原題は『Ничто в полюшке』
    「полюшке」は名詞「поле (草原)」にに指小接尾辞(縮小辞)「-шк」がついて変化した単語「полюшко (野原)」の前置格.
    余談だが, 日本でも有名なロシア民謡(軍歌)「Полюшко-поле(ポーリュシカ・ポーレ)」で使われている語でもある.  

(*c45)  作詞者が異なるものの, 題が『(季節) + (時間帯)』の組み合わせで統一されている.
    ある種のシリーズものと捉えても良いかもしれない.

(*c46)  ロシア語の原題は『Здравствуй, лен!』
    …であるが, これは恐らく『Здравствуй, лень!』の誤植ではないか, …と推察される.
    「лен」は「county(行政区)・feoff(領地)・fee(封土)」という意味(※下記)になり, 呼びかけ語である「Здравствуй(おはよう)」とつながらない.
    「лень」は「laziness(怠惰・不精)・sloth(ものぐさ・怠け者)」という語である.

    [追記 (21/08/02)]
    ラコフの教え子のひとり エドゥアルド・アルテミィエフ (Eduard Nikolaevich Artcemyev, 1937- )の声楽作品にも
    『Здравствуй, лень!』(作詞: ナターリヤ・コンチャロフスカヤ)という楽曲がある.
    ラコフの楽曲とは作詞者が異なるので詞の内容もおそらく関連がないと思われるが
    このことからも, やはり上述の通り「лен」ではなく「лень」が正しい…んじゃないかなぁ.
    無理やり 「領土・領土権」→「領主さま」と曲解できなくはないですが…無理があるような気がします.

    
    (※) 上記の意味では, おおよそ中世ロシアの時代に用いられた言葉の用法による.
       ① 家臣に与えられた財産(領地). またそれらを所有する権利のこと.
       ② ①のような不動産を有することに負う義務.
      またそれらの意味の他に「linen (リンネン=亜麻)」を指すこともあるそうだ.
    

(*c47)  笳(あしぶえ)とは, 牧童などが使う葦(あし)の葉で出来た簡素な笛のことである.

(*c48)  モスクワ音楽院でのラコフの専門科目は楽器法(管弦楽法)であった.
    1943年から教授として現場の教育に長く携わっていた.
    声楽曲に於けるこの曲集の持つ意味は, (実物に触れていないのでわからないが)四声課題のようなものだろうか. (二声だけど)




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Composer Nikolai Rakov
(1976)




Composer Nikolai Rakov
playing the violin (1924)




Composer Nikolai Rakov
(1945)




Composer Nikolai Rakov
scene of conducting the orchestra 




Composer Nikolai Rakov
scene of composing (1976)




Composer Nikolai Rakov
(1959)





◆最終更新日: 2022/02/16